『近江国余呉荘現地調査概報V』
国安地区
V.国安
【1】寺
(1)円通庵(エンヅウアン)(T1)<読み方は鈴木修氏 98年>
→『余呉町の文化財』に「エズアン」のルビ←要確認
1 無住。 <鈴木修氏 96年>
2 宗派は曹洞宗。 <鈴木修氏 97年>
3 越前の寺との関係が深かった。曹洞宗であることからか?
4 現在、檀家は天神前の人は8戸。 <鈴木修氏 98年>
5 円通庵は毎年、当番で決まった世話方と呼ばれる代表が管理している
6 2ヵ所に墓あり。入って奥側が元々の墓で入口側が新しい。 <鈴木修氏 98年>
7 後ろの山の墓に、無縫塔・一石五輪あり。 <実見 96年>
8 墓石の一つに 正面「圓通庵前住□嶽行仙和尚」
右「當郡産東野氏」 と、記されている。<実見 97年>
9 もう一つ金石記録あり(メモは川口所有)。 <実見 97年>
10 草岡神社の観音像は、廃仏毀釈時にまず円通庵に移されたが、手狭であったためのち、現在の
ように光勝庵へ移された。 <鈴木修氏・『観音パンフ』 97年>
11
現在草岡神社にある金比羅さんは、以前は円通庵手前の墓地のあるところにあった。
<鈴木修氏 97年>
(2)安養寺(アンヨウジ)
1 真言宗古義派。 <十一面観音像のパンフレット(以下パンフ) 97年>
2 本尊は十一面観音。氏仏として信仰される。
<パンフ 97年>
3 神仏混淆時代は、草岡神社現社務所にあり神宮寺として栄える。<パンフ 97年>
4 当時の社務所は神社のオコナイに使った。(T2) <鈴木修氏 98年>
5 神仏離廃令により破却、廃寺とされる。
<パンフ 97年>
6 神仏離廃令による取り壊しの際に、円通庵に遷仏。
<パンフ 97年>
7 明治9年に、円通庵から光勝庵に遷仏。
<パンフ 97年>
8 その後改修され草岡神社の社務所として利用されるが、社務所新築のため取り壊され
る。 <パンフ 97年>
(3)光勝庵(コウショウアン)(T3)
(写真あり)
1 昭和22年より無住。 <堂内の縁起 97年>
2 現在無住。 <※ 96年>
3 本来は天台宗であったが、近世初期に全長寺からでた僧侶によって再興され、
禅宗(
曹洞宗)となった(堂内の縁起・・・川口メモあり)。 <堂内の縁起 97年>
4 宗派は曹洞宗。 <鈴木修氏97年>
5 光勝庵の隣に住む伊吹さんが世話役。
<※ 96年>
伊吹さんが世話役であることはまちがい。世話役という役はない。<鈴木修氏98年>
6 檀家は現在36戸。内2戸天神前の家。(よそへ引っ越した家有)<鈴木修氏98年>
7 円通庵と光勝庵の檀家は重なっていない。 <鈴木修氏 98年>
8 六斎(ロクサイ)と呼ばれる6人の人物が光勝庵を管理している。任期は1年で、3人
ずつ半年おきに交替している。またさらに、総代が家の並び順で一人選ばれ任期は2年である。 <鈴木修氏 97年>
→3月と9月に3人ずつ交替。家の並び順で回る。 <鈴木修氏 98年>
9
十一面観音があり、観音講によって祀られている。
<※ 97年>/<鈴木修氏 98年>
10 毎月17日前後には観音講がつとめられ、西国三十三ヵ所の御詠歌を唱える(節を付
けて唱える)。
<鈴木修氏 97年>
11 安養寺の観音像を光勝庵が預かっており、国安区から光勝庵に供養料が出ている。
←供養料はいくらか <鈴木修氏 97年>
¥1600<鈴木修氏 98年>
12 この観音像は国安の「氏仏(ウジボトケ)」である。 <鈴木修氏 97年>
13 境内に「伊香西国 観世音道
という道標あり。 <実見 96年>
二十四番 」
・集会所近くにある道標は光勝庵再建時に新造した。 <鈴木修氏 98年>
14 光勝庵の敷地内に薬師堂があり、「シモヤクシ」と呼ばれている。
<鈴木修氏 97年>
15 草岡神社の祭りの時には光勝庵に集合する。 <鈴井修氏・赤井文彦氏 97年>
16 本堂横の梵鐘は、観音講の時などお参りの合図として鳴らす。<鈴木修氏 97年>
→今は有線放送<鈴木修氏 98年>
17 10年ほど前に全長寺に仏をお守りしてもらおうという話もあった。
<鈴木修氏 97年>
18 昭和58から59年にかけて、布施修氏(県関係の役人・生まれは坂口)が、光勝庵
関係の仏像などの調査をしている。この調査台帳が光勝庵にある。
<鈴木修氏 97年>
布施氏の肩書きは「県教育委員会文化財担当」 <鈴木修氏 98年>
19
光勝庵内の須弥段・仏像等の写真あり(青木保管)。 <実見 97年>
20
光勝庵の年中行事表とそれに関する聞き取りあり(川口保持)。
<聞き取りは鈴木修氏から 97年>
21 S62の建て直し前の建物と同じ大きさ。それ以前はつぶれかかっていたので、
全長寺に移る話も出たが、募金して再建。このとき十一面観音が文化財になった。
<鈴木修氏 98年>
☆課題
1 これまで、安養寺と光勝庵の区別が曖昧であった。別々のものとして把握する
(4)薬師さま(写真あり)
1 国安区内に「カミヤクシ」(T5)、「シモヤクシ」(T4)の2つがある。
<鈴木修氏 97年>
2
両者とも場所が移動している。 <鈴木修氏 97年>
⇒現在位置は確認済み。シモヤクシの旧所在地は大まかには確認。(T6)
3
天神前の野神近くにある。(T5) <実見 96年>
4
コンクリートのお堂の中に薬師如来と地蔵が1体ずつ有。(T5)
<実見 96年>
5 お堂(T5)のまわりに金石あり(調査の必要あり)。 <実見 96年>
石造物60くらい
地蔵15体(すべて地蔵かどうかは不明)
五輪
宝篋印塔
6 光勝庵敷地内の薬師は「シモヤクシ」。(T4) <鈴木修氏 97年>
7
20年前くらいに現在の地に移る。(T5)(昔の位置は不明)
<北原等氏 96年>
(5)その他
1 現在、光勝庵・円通庵の檀家の多くが全長寺の檀家にもなっており、両方にお金を納
めている。 <鈴木修氏 97年>
☆薬師さま/寺全体の課題
1 移動した年代等をはっきりさせる
2 金石をより詳しく見る
【2】神社
(1)草岡神社(クサオカジンジャ)(J1)
1 式内社、郷社である。 <北原等氏 96年>
2 国安の全員が参る。 <北原等氏 96年>
3 社日は1日、15日。 <北原等氏 96年>
4
神社は高い山(背後の山のこと)の上から移転された。
<北原等氏 96年>
5 観音様を安養寺に移した。
<北原等氏 96年>
6 祭神はカンムスビの神・菅原道真・彦坐尊(ヒコイマスノミコト)のほか、
宇宙を創造されたタカムスビの神もいる。
<赤井文彦氏 97年>
7 1999年に道真の1100年祭が行われる。 <赤井文彦氏 98年>
8 集福寺の長岡豊野さんが草岡初代神主。明治期の人。ついで二代目が片岡直友(ヨシトモ)さん。
彼が片岡姓の最初の人物である。 <鈴木修氏 98年>
9 代々神主は神社北に住む片岡俊男氏の家がつとめていた。現在は違う。
<赤井文彦氏 97年>
10 前の神主は田中宮司であったがすでに亡くなり、現在は文室の村口喜一郎さんが神主
代行として祭事を行っている。 <北原等氏 96年>
11
神社係は6人いて順番に務める(どこの人が係をやるのか不明)。
<北原等氏 96年>
12 神社係は1年の祭りや会計を行う。
<北原等氏 96年>
13 鐘は除夜の鐘とオコナイの参拝の合図としてならす。 <北原等氏 96年>
14 昔は現在の社務所の所に安養寺があり、その時の鐘が現在草岡神社にあるのではない
か。 <北原等氏 96年>
15 鐘には草岡神社と刻まれている。 <実見 96年>
16 神社内の用水は圃場(第何回かは不明)前と同じ配置。
<北原等氏 96年>
17 用水の分岐点が3ヵ所あり。 <実見 96年>
18 神社の前に石碑、脇に野神あり。 <実見 96年>
19 武内宿禰が神功皇后の代参として参詣した。
<赤井文彦氏 97年>
20 第1の鳥居が明治期まで旧北国街道沿いの下余呉にあった。木造であった。2の鳥居
は北国街道と草岡神社前の道の交差点付近にある。
<赤井文彦氏 97年>
21 池原に草岡神社の分御霊である樹本神社がある。←要確認<赤井文彦氏 97年>
22 1050年祭(昭和24)は、4月1日・2日に奉納芝居をした。(入手史料あり)。
<※ 98年>
23
草岡神社にある木はケヤキ。神社の入り口にある橋はテル橋と呼んでいた。
<片岡重春氏 98年>
☆草岡神社/神社全体の課題
1 祭りにおける国安の優位性及び他村との関係
2 用水における草岡の役割→なし<北原98>
3 社係についてはっきりさせる(順番など)
→特に決まりはなし。講で推薦しておいて1月15日の総会で6人を選挙の形で選ぶ。任期は1年。<鈴木修氏 98年>
4 鐘の銘を確認する
5 草岡の前の1町の田圃の意味を明らかにする→神的意味はない。用水的に池原からの水を使っている唯一の田。 <北原等氏 98年>
6 池原に草岡神社の分御霊である樹本神社があるかどうか要確認
7 氏子は誰か?→国安全員が氏子。総代とは氏子総代のこと <北原等氏 98年>
【3】石造物・金石
(1)草岡神社前の石碑(ア)
1 図あり。 <実見 96年>
(2)道標
1 多目的集会所の近くに「伊香西国 観世音道
という道標あり。(イ)
二十四番
」 <実見 96年>
2 安養寺光勝庵の中に「伊香西国 観世音道
という道標あり。(ウ)
二十四番
」 <実見 96年>
(3)野神(ノガミ)
1 国安には3つの野神あり。 <北原等氏 96年>
2 どの部落にも野神はある。 <北原等氏 96年>
3 当番で野神の掃除を行う。 <北原等氏 96年>
4 野神の掃除当番をする順番は、五ヵ村野神総出で年に3、4回。草岡神社の掃除の
ついでにする。 <北原等氏 98年>
5
五ヵ祭り=8月25日の草岡神社の祭りが野神祭。 <北原等氏 96年>
6 天神前と本郷は野神が異なるだけで、組織は一緒。←組織とはどんな組織を指し
ているのか? <北原等氏 96年>
7 五穀豊穣を祈るものではないだろうか。 <北原等氏 96年>
8 野神は山から切った丸太をたててまつる。←どこの丸太なのか?
<片岡昌史氏 96年>
9
電線があり、丸太をたてられなくなったため、丸太は家の中においたりしていた。
←誰の家なのか? <片岡昌史氏 96年>
10 大木が倒れたため、碑をたてた。 <片岡昌史氏 96年>
・この大木は高さ10丈周り3丈。この木の日陰は免税地であった<北原等氏 98年>
a本郷の人が祀る野神(エ)(写真あり)
1
野神のまわりに一石五輪2つ。 <実見 96年>
2約20年前に現在の場所に移転。
<北原等氏 96年>
3 昔の場所は未確認。
b天神前の人が祀る野神(オ)
1野神まわりに五輪塔あり(数は要確認)。 <実見 96年>
c国安の全員が祀る野神(草岡神社のところ)(カ) <実見 96年>
11 野神とはつまり、野の神のことである。 <北原等氏 98年>
(4)山埋西側の石造物(キ)(写真あり)
1
六地蔵の裏側に約150あり。そのうち一石五輪約3割。 <実見 96年>
2
中世期らしき水輪、空風輪、一石五輪が各1つずつあり。 <実見 96年>
3
近世期らしきもの約20あり。 <実見 96年>
(5)山埋東側の石造物など(ク)(写真あり)
1
ほこらの中に地蔵1体。 <実見 96年>
2
石造物約80あり。 <実見 96年>
3
室町期らしきものあり。 <実見 96年>
4石造物の近くに直径約1.1m,深さ約1.2mと、それよりもう少し小さな穴有。
<実見 96年>
5
この穴にお産時のよごれものを捨てたらしい。 <※ 96年>
(6)山埋の東にあった石造物(埋墓付近)(ケ)(写真あり)
1
石垣の上に50〜60あり。 <実見 96年>
2
空風火水地の字の入った一石五輪あり。 <実見 96年>
(7)愛宕(→10-(2)愛宕講も参照のこと)
1
国安に4つ(天神前2つ(コ、サ)、本郷に2つ(シ、ス)ある)。
<実見 96年・97年>
2
さらにもう一つ草岡神社の社殿に納めてある(セ) <鈴木修氏 98年>
3
以前は辻に棒を立てて、箱をくくりつけていたが、腐ってしまうので現在では建物のひさしの
下で、風雨から守られている。 <※ 96年>
4
八坂神社のシンミョウショウライと書いてある札を中に入れる。<※ 96年>
5
在所全員が参加する愛宕講という組織あり(どこのことをさして在所というのか
不明)。
<※ 96年>
6
区民総会で札を取りにいく人を決める。その人は、1月23日の愛宕講までに取りにく。
<※ 96年>
愛宕神社でもらったもの…各家に配る
八坂神社でもらったもの…箱に入れる
☆石造物・金石/全体的な課題
1 詳細な調査を行うのなら、一つ一つの精細な調査。
2 石碑と鐘の銘は全部とろう
☆道標の課題
1 道標に記されている道のルートの確定
2 いつからある道であるのか
☆野神の課題
1 いつから丸太が石になったのか→天神前の野神はそもそも丸太であったかどうか不明。
<北原等氏 98年>
2 今も丸太で祭っているものはあるのか
3 各野神ごとにある共通点・相違点は
4 「5 天神前と本郷は野神が異なるだけで、組織は一緒」この組織とはどんな組織を
指しているのか?
5 まつる丸太はどこからとってきたのか?
☆山埋周囲の石造物群の課題
1 いつから存在するのか
2 存在する理由は
3 由緒は
☆愛宕の課題
1人々が、まちまちのことを言っている。まとめてみる必要がある。
【4】村と村との関係
・情報なし。
☆課題
1 国安の村々との関係における地位は?
2 土地の所有関係に関して全般的に調べる必要有り
3 祭りばかりからではなく、流通・生活面でのつながりを
4 池原、新堂の争いに国安はどう関わっていたのか?
5 五ヵ村の中心にしては前回は成果なし。今回は配慮が必要。
【5】葬制
(1)山埋(A)
1 1.3メートルくらいの深さの穴があり、「チノイケ」とよばれており、お産の時の
汚れ物を捨てていた。
<鈴木修氏 97年>
2 卒塔婆が立っているのが禅宗、角塔婆(角材→角塔婆 鈴木98)が立っているのが真宗の人の墓。
<鈴木修氏 97年>
・山埋に杖と傘を建ててある墓は禅宗<鈴木修氏 98年>
3
かつては土葬であり、山埋に埋めていた。埋めて数年たってから墓を建てた。
<鈴木修氏 98年>
4 現在も山埋に骨壺を埋めている人もいる。 <鈴木修氏 97年>
5 骨の一部のみを埋葬。 <※ 96年>
6 盆といつかの年2回、6戸づつ順番を決めて山埋の掃除をする。←いつか、とは?
<鈴木修氏 97年>
→盆前に全体で一回。一年に一度エルザ(女性グループ)が一回。有志の人がやるときもある。
<鈴木修氏 98年>
7 山埋を現在の場所にまとめたのは明治頃。 <鈴木修氏 97年>
→「明治頃」は推理に過ぎず。不明。<鈴木修氏 98年>
8 火葬場ができる以前は山埋で儀式を行っていた。 <鈴木修氏 97年>
9 現在は全長寺の方に墓をつくる人もいるが(→増えてきたが 鈴木98)、昔からの習慣で埋葬を行う人あり。 <※ 96年>
・いなくなりつつあるが、骨を納めて墓も持つ人もあり。<鈴木修氏 98年>
10 牛の死体を埋める墓があったが、名前などはわからない。あくまでも言い伝えである。
(F)
<片岡重春氏98年>
11 牛を納める墓は野海(小字)から焼田(小字)にあがる道の途中にもあった。
<片岡重春氏 98年>
(2)詣り墓(B)
1 全長寺に墓を移す家もある。 <鈴木修氏 97年>
2 詣り墓は家ごとにある。 <鈴木修氏 98年>
(3)円通庵の3ヵ所の墓 C(無縫塔、一石五輪あり)・D・E
<実見 96年・97年>
1 曹洞宗は一人一人亡くなるとお墓を建てるが、このごろは真宗に習って家ごと先祖
代々の墓を建て、納骨できるようになっている。 <鈴木修氏 98年>
(4)葬送儀礼
1 「ソウドキ(総斎)」…国安区全体のみんなで葬式に参列する。しかし今は全員ではない。
<鈴木修氏 98年>
2 親類代表が区長に総斎の申し入れ(1000円をもって)をすると、区長が村人に村
内電話で伝達する。 <鈴木修氏 97年>
3 人が亡くなるとすぐに、山埋入り口にあるしきびの枝を摘みに行き、枕もとの花瓶に
供える。 <鈴木修氏 98年>
4 全ての花の代わりにしきびを供える。理由不明。 <鈴木修氏 98年>
5 お棺をかついでお棺をのせる台の周りを3回まわると善光寺をお参りしたのと同じ
加護が得られるとされていた。 <片岡重春氏 98年>
6
棺桶は、死者との血縁の度合いで担ぐ場所が決まっている。前から4、2、1、3と
血縁の濃い順。姉婿が天蓋を持つ。 <片岡重春氏 98年>
図
☆葬制の課題
1 墓一つ一つの詳細なデータ取り
2 階層ごとに違いはないか
【6】年中行事
(1)野神祭(五ヵ祭)
1 8月25日に五ヵ祭が行われる。 <北原等氏 96年>
8月25日は不変<鈴木修氏 98年>
2 国安の青年(祭典社=男性・女徳会=女性)が参加
。 <鈴木修氏 97年>
3
昔(いつかは不明)は中学卒業〜25歳の独身の人物が祭礼に参加。現在は中学生
から30歳までの人が祭礼に参加する。 <鈴木修氏 97年>
4
各区長(国安、池原、今市、東野、新堂、文室 )・余呉町長・県の神社庁のひとが参列。
<鈴木修氏 97年>
5 ノシオドリ(ママ)、シノ宮オドリ、江州オドリがある。 <北原等氏 96年>
6 ヒルオドリで男性が踊る(四季オドリ{ママ}=奉納するための踊り)(種類など不明)。
<北原等氏 96年>
7 30歳までで、未婚の男性が踊る。 <※ 96年>
8 女性は江州音頭で一緒に踊る。 <北原等氏 96年>
9
昼は奉納踊りであり、式踊り(能登踊り・四ノ宮踊り)と江州音頭を国安の青年が踊
る。 <鈴木修氏 97年>
10
式踊りは国安の男性のみが踊り、奉納踊りの江州音頭だけ国安の女性も参加する。
<赤井文彦氏 97年>
11
夜は式踊りのみ国安の青年が踊り、その後江州音頭は誰でも参加可能。
<赤井文彦氏 97年>
12
四ノ宮踊りは京都と関係し、能登踊りは能登からの出稼ぎ人が多かったことが関係
するのでは?。 <赤井文彦氏 97年>
13 昼と夜の踊りをあわせて「五ヵの踊り」と呼ぶ。
<赤井文彦氏 97年>
14 顔などを隠して踊ることはなく、また全員浴衣を着ることがきまりとなっている。
<赤井文彦氏 97年>
15 戦時中もこの踊りは中止されなかった。 <赤井文彦氏 97年>
16 国安の青年は昼・夜2回光勝庵に集合し、そこから鐘などを鳴らしながら神社まで行
進する。夜のみタカハリ(提灯)4基を行列の先頭に立てる。
<赤井文彦氏 97年>
17 安養寺光勝庵を出て、鐘を鳴らしながら神社に向かって行列する。<※ 96年>
18 草岡神社には池原(新堂)・東野・今市・文室の順で入り、国安はそれらの村を歓迎
の太鼓をたたいて迎える。
<赤井文彦氏 97年>
19
行進のことを「お練り」「練りこみ」と呼ぶ。 <赤井文彦氏 97年>
お練りは祭りの始まりの合図のようなもの。男性のみ。女性は草岡で待っている。
<鈴木修氏98年>
20 昔と現在ではお練りのルートが異なる。 <※ 96年>
21 夜のお練りは国安のみ行う。
<赤井文彦氏97年>
22 祭りの時は黒足袋・黒羽織(ロノハオリ)に絣の浴衣姿。 <鈴木修氏 97年>
→祭典社の社長のみ。社は「集まり」の意味。<鈴木修氏 98年>
/着物・羽織・下駄 <赤井文彦氏 97年>
→着物・羽織はではなく、浴衣・下駄<鈴木修氏 98年>
23
祭礼の式次第のメモ有り(川口保管)。 <赤井文彦氏 97年>
以下、メモの内容(ママ)
昼 13:00頃から
1 式典前に区長達は集合しておく。
2 青年団が行列して神社へやってくる。
・今は近くまで車で来て、そこから行列「お練り」、鐘、太鼓。
・国安は先に入り、他の集落を、鐘をたたいて迎える。
・順番は 池原(新堂)−東野−今市−文室
3 入ってきた順に2列になり、階段上へあがる。
4 全員集まったら玉ぐし奉奠。←奉奠するのは青年会長?区長?
5 式典が終わると、踊りに入る。
1)国安青年団会長が、他の青年団会長へ「踊らせていただきます」と挨拶。
2)式踊り(=四ノ宮踊りと能登踊り)は、国安の青年団(男)のみ。
3)江州音頭は国安男女
以上、3つの踊りをヒルオドリという。
夜
1 国安は18:00ごろ光勝庵に集合。
「お練り」(高張{タカハリ}4基)は国安のみ。
2 昼と同じく式踊りをする
3 江州音頭からは、国安以外の人も参加できる。
(2)オコナイ→草岡神社のオコナイ<鈴木修氏 98年>
1 1斗の米をついて餅にして奉納する。 <北原等氏 96年>
2 戸受(とうけ)という行為があり、これは、もち米を奉納することを依頼し承諾する行為をいう。
<北原等氏 98年>
3 もち米は当番の人が負担する。(特別な田地はない)。 <北原等氏 96年>
→神田2カ所有り<鈴木修氏 98年>
4 年齢順に餅つきをする。 <北原等氏 96年>
5 天神前は1月1日〜3日(本郷は未確認)。 <北原等氏 96年>
→本郷・天神前、一緒に行う<鈴木修氏 98年>
6 若い家が順にやる。 <北原等氏 96年>
→長男の年齢順。一年に二軒ずつ回ってくる <鈴木修氏 98年>
7 オコナイの当番の当たることを、オコナイをうけるという。
8 オコナイは1月3日にうける。あたった家→一年間四つ足の動物を食べない。一年間
朝の一番風呂に入る。毎月1日、16日、25日に草岡神社にお参りする。コエオケ
(汚いものなど)を持ってはいけない。死人が出た時、葬式にはいってもよいが、たべ
ものなどをもらうとけがれるので、もらってはいけない。オコナイ当番にはけがれない
ように、厳しい掟があったが、今はもうない。
9 1月2日に水をかぶって清めてから一番風呂に入り、それから草岡神社に行ってオコナイをす
る。
10 神田にはセントウ(先頭)とゴトウ(後頭)の2カ所がある。草岡神社に近い方が
ゴトウ。毎年、オコナイをあげる家が神田を耕す。
11 神田は先頭が六畝、後頭が五畝。後頭は二俵半ぐらいもち米がとれる。二斗のもち米でもちを作った。
12 先頭のもち米で作った鏡餅には、食紅で菊の御紋をいれた。後頭には、ウメバチの紋を入れた。
13 1月2日におもちを神社に供えることを、ミアゲという。
3日にお餅を降ろし(ミヤオロシ)、社務所で次にオコナイをうけた人が切る。
さらに、うけた人は親戚にあいさつとしておもち(ハナビラ)を配る。
14 先頭のおもちは角盆、後頭は丸盆で供える。
15 1月11日 田打(タウチ)
オセンマイ(伊勢からもらってきたお米)とゴーノバイを田へ持っていって、豊作祈願をする。
16
昔は田植えの日などは、ルールが決まっていて厳しかった。
<以上片岡重春氏 98年>
(3)雨乞いの踊り
1 干ばつの時には、雨乞いの踊りをする。 <北原等氏 96年>
2 昭和19年7月末〜8月末の42日間、全く雨が降らず、雨乞い踊りが行われた。
<北原等氏 96年>
3
雨乞い踊りは神社の境内のバンバと呼ばれる広い場所で行われた。
<鈴木修氏 98年>
4
雨を降らせて下さいというような内容の文句を言いながら踊る。
<北原等氏 96年>
5 男性の踊りで、雨が降った後はお礼の踊りをする。 <北原等氏 96年>
6 雨乞い用の衣装が光勝庵に置いてあるが、使いものにならない。
<鈴木修氏 98年>
7
比較的年寄りが、太鼓鐘をならしつつ歌を歌う。楽器は草岡に保管している。
<鈴木修氏 98年>
8 踊るのは若い人。 <鈴木修氏 98年>
9 余呉湖の一番深い所(新羅の森)の水を汲んできて、草岡神社にお供えした。
<鈴木修氏 98年>
10
雨乞いの踊りをやっても雨が降らなかった場合、文言をかえてやる。
<北原等氏 98年>
(4)ゆの花祭
1 米をくだいて水で練ったものを椿の葉にのせる。これをゆの花という。
<片岡昌史氏 96年>
2 3月、9月の彼岸の時、(年2回の祭り)大きな釜に湯を沸かして神主がその中にゆ
の花を入れる。 <片岡昌史氏 96年>
3 釜は草岡神社の薪で沸かす。
(薪をつくる者不明)。 <片岡昌史氏 96年>
4 その他、お供え物をして祝詞を神主があげる。 <片岡昌史氏 96年>
5 「ヨミヤ」←当番の人が暖をとるために薪を使って火をおこす。
<片岡昌史氏 96年>
(5)1050祭
1 50年に1回。 <片岡昌史氏 96年>
2 狂言、歌舞伎、芝居を村の若者がする。 <片岡昌史氏 96年>
3 舞台は7間もあり大きい。現在は残っていない。 <片岡昌史氏 96年>
4 音楽も含めてすべて村人が行った。 <片岡昌史氏 96年>
5 歌舞伎には先生も呼ぶ。
<片岡昌史氏 96年>
6 秋葉講/金比羅講/お稲荷講/毘沙門講で、祭り有り <鈴木修氏 98年>
7 金比羅講は春秋2回。青年会が仕切っているが、今は村でやっている。(野神以外は
全て村)。日曜が多い。 <片岡昌史氏 96年>
☆全体的な課題
1 民俗調査の成果から現在明らかになっていることを把握
2 現在と、民俗調査が入った当時と、又、さらに過去とのちがい
3 階層差が年中行事にどんな影響があるのか
☆野神祭(五ヵ祭)の課題
1 他村の者の参加形態
2 野神祭(午前)と五ヵ祭(午後)に分けて聞き取りを進めること
3 五ヵの祭りについては、他班と連携を強め、より立体的にとらえることを目指す。
e.g
.午前中は各村何をしているのか。
☆雨乞いの踊りの課題
1 用水関係と一緒に、他班と協力しながら調査を進めること
【7】用水
(1)用水
1 昔は川(どの川か要確認)から水を引いていたが、現在はポンプ(場所要確認)で地
下水を汲み上げる。 <北原等氏 96年>
2 草岡神社境内に用水の分岐点が3ヵ所あり、境内の用水は圃場整備前と同じ配置(境
内図を参照)。 <北原等氏 96年>
3 草岡神社の境内を流れる用水は池原の谷水で、神社の南側の田だけを灌漑している。
<話者氏名不明・神社南側の田の耕作者 97年>
4 以前から池原からの谷水・勘定川・国安の谷水を利用している。
<赤井文彦氏 97年>
5 国安は地下水が浅く、そのようなわき水も耕作に利用してきた。
<鈴木文彦氏・片岡重春氏・赤井氏 97年>
6 行市山からの山水を「ギョウイチオロシ」と呼ぶ。
<片岡重春氏 97年>
7 国安の谷の奥の方は湿田が多かった。 <赤井文彦氏 97年>
8 村中の用水は以前は幅2メートルくらいと広かったが、道路拡張によって現在の広さ
になった。水量は変わらない。 <赤井文彦氏 97年>
9 現在は数ヵ所にポンプを設置。 <片岡重春氏・赤井文彦氏 97年>
10 耕地改良事業では排水に力を入れた。 <赤井文彦氏 97年>
11 勘定川の流路は耕地改善により変化している。 <片岡重春氏 97年>
12 勘定川はかつて1m位の水深であった。飲料水であった。川を汚してはいけなかった。
13 天神前の集落を抜けた「舛場2」あたりで下着類を洗っていたため、特に勘定川を
「オムツ川」「シメシ川(シンメ=オムツのこと)」と呼んでいた。
<以上2項片岡重春氏98年>
14
草岡神社の北の山沿の道にある小さい川は、神上川(カンジョウガワ)という。
<話者不明>
15 昔の勘定川は堤防がなく、無堤(ムテイ)と呼ばれた。 <赤井文彦氏 98年>
16枡場は絶対に動かせないようにできている。国安には3カ所あった。(地図確認済)
一年に一度掃除していた。<※ 98年>
17 草岡神社の前の枡場のあたりでは、昔、国安同士で争論があった。<※ 98年>
18 江戸期、東野に嫁いだ娘に、親が国安から水を引いて送ってしまい、磔の刑にあった
。100mぐらい溝を掘って水を流した。この場所をコレト川と呼ぶ。<※ 98年>
はっきりとした場所は不明。
(2)ため池
1 池は東野と国安が持っていた。 <鈴木修氏 97年>
2 ため池は昭和50年台まであった(当時鈴木氏が区長だった)<鈴木修氏 98年>
3 深さは子供が沈むくらいあった。 <鈴木修氏 97年>
4 池の水は非常時(干魃・火災)用である。普段の耕作には使用されなかった。
<鈴木修氏 97年>
5 水番をする人(番水)がいるのかいないのかは不明。 <鈴木修氏 97年>
6 時間を決めてその時間に流れを変更する。 <鈴木修氏 98年>
7 全長寺の裏のわき水などが水源。 <鈴木修氏 97年>
8 昔水争いがあったよう。全長寺のところに水マスがあって、均等に水を分けていたよ
う。 <北原等氏 96年>
9 分水施設に大水分神社が祭られており、現在は新堂が祭っているので、国安は
お礼に毎年お金を納めている。 <鈴木修氏 98年>
【8】道
・川並−権現坂−塩津(ルート不明)
・国安−文室−塩津(ルート不明) <片岡氏 96年>
(1)山埋の前の道
1 古くからあった道のうち、本郷から天神前に至るかつてのメインルートであった。
(実線@) <※ 96年>
2 この道は「サンマイミチ」と呼ばれている。
<鈴木修氏 97年>
3 サンマイミチは「ウラミチ」とも呼ばれた。 <片岡重春氏 98年>
4 「ナカミチ」は幅2尺程度で、田圃に行くときに通った。(破線D)
<片岡重春氏 98年>
(2)野神祭で、光勝庵から草岡神社に移動するときに通る道
昔通っていた道。 (破線A)
現在通っている道。 (実線B) <※ 96年>
(3)シブクジ越え (実線C)
1 旧北国街道〜草岡神社〜池原〜塩津の道は古い。「シブクジ越え」(集福寺越えカ)
と呼ばれており、旧県道だった。 <片岡重春氏 97年>
(4)死人(シビト)越(破線E)
1
廃仏毀釈の結果、神社の前を通らず全長寺へ行くためのルート。
<北原等氏 98年>
(地図確認済)
☆課題
1 国安−文室−塩津のルートを特定
2 葬送の道の確定
【9】地名
1 国安には柳(ヤナギ)・サワグチ・藪田(ヤブタ)・清水・片岸(カタキシ)・野海・中
石原(ナカシワラ)など、湿地に関する地名が多かった。 <赤井文彦氏 97年>
2 区長が『国安区野帳』というものを持っており、細かい地名を知ることができる。
<赤井文彦氏 97年>
3
清水のあたりをショボダ、ショウブダと呼ぶ。湿地帯であったのでは。
<赤井文彦氏 98年>
4
文室川に近い方が田の質はよい。 <※ 98年>
5
平田は粘土層であった。古取はどぶ、焼田は砂地だった。 <※ 98年>
6
後頭の神田がある正作は、池原からの谷水を使っている。 <※ 98年>
7 ヤナギ(沢口のあたり)、ナシモト(東野)、ヤマメ(東野)、チハラ(東野)
などの地名があるが今は使わない。
8 野海=濃海と書く人もいることから、この地帯は沼であったのではないか?
9 中石原(ナカシワラ)は砂利層であった。
10 焼田は谷水を使っているので、時々干上がってしまう。
11 戦後、アメリカによる農地改革で神田は認められず、その当時オコナイ当番にあ
たっていた家の名前で登記登録してある。 <以上赤井文彦氏 98年>
【10】講
(1)講について→食事するのは天神講と愛宕講<鈴木修氏 98年>
1 講は仲間が集まり食事をするもの。現在でも行われている。<片岡昌史氏 96年>
2 当番が打ち豆汁(大豆を石の上でたたいて、大根と煮る)をつくり、お宮さんの社務
所へ持っていく。ご飯だけは自分でもってゆく。みんなで祈った後食事する。
<片岡昌史氏 96年>
3 食器は茶碗にご飯を入れて、汁ものを入れるものでフタをする。
<片岡昌史氏 96年>
4 惣酒←読み方要確認 といって、つまみを持ちよって飲む。<片岡昌史氏 96年>
5 秋には、ホウケギの葉を汁に入れる。なすのときもある。
<片岡昌史氏 96年>
6 年に7−8回あったが、食事を作るなど負担が大きいため回数を減らすなどの改革を
片岡氏が区長の時にした。→講の回数を半分、中身を豆腐汁に。
<片岡昌史氏 96年>
7 講は天神講・愛宕講・お伊勢講・観音講がある。
<鈴木修氏 97年>
8 神社にも講がある。→氏子全員によるもので年6回ぐらい。→「氏子の講」
<片岡昌史氏 96年>
9 昔は寺にも講があった。→宗門により別々。 <片岡昌史氏 96年>
10 アタゴ(愛宕?)講・伊勢講は現在もある。 <片岡昌史氏 96年>
11薬師講もある。 <鈴木修氏 97年>
12国安は(原則として)どの講にも全員参加。 <鈴木修氏 97年>
→あくまでも講に参加している人が祀る。<鈴木修氏 98年>
(2)愛宕講
1 在所全員が参加する。 <※ 96年>
2 1月23日に行われる。 <※ 96年>
3 木箱に入れる札を取りに行く人は、区民総会で、くじ引きで決められる。
<※ 96年>
4 毎年2人づつ、くじ引きで選ばれる。
<鈴木修氏 97年>
5 代参(ダイサン) 京都の愛宕さんにまいる。しきびの花(枝?)と札を各1戸ずつ配る。
<片岡昌史氏 96年>
6 愛宕さんでお札としきびの枝をもらってきて、その後八坂神社で「ソミ
ンショウライ」を5つもらってくる。 <鈴木修氏 97年>
7 1月15日までに行って来る。
<鈴木修氏 97年>
8 区の会計で年間の代参費を集め、抽選で選ばれた人が行く。次の抽選の時はその人は
はずれる。 <片岡昌史氏 96年>
9 特に、代参の人を見送りも出迎えもしない。(サカムカエなどがない)。
<片岡昌史氏 96年>
10 札を入れる箱は辻にまつる。国安では、境界線にまつったりはしない。
<片岡昌史氏 96年>
→一つは社殿に納めてある<鈴木修氏 98年>
11
現在愛宕のお札を祀ってある場所は、昔は各家で祀っていた。
<鈴木修氏 97年>
☆課題
1 講内の序列はどのようになっているのか
(3)お講(天神講)←現在は改革された<鈴木修氏 98年>
1 天神講は社務所で行う。<片岡重春氏 98年>
2 毎月25日、打豆汁(大豆をたたいた汁)をだす。 <鈴木修氏 97年>
→豆腐汁に
3 情報交換の場であった。 <鈴木修氏 97年>
→区長挨拶。区の情報。それに対する村人の意見交換。
4 天神講は1月25日、5月1日、9月25日ともう一日。昔は年4回あったが、今は
年3回。5月1日は「大風の願かけ」といって、テル橋と神社の一番上を300回往復す
る裸足の三百度参りをする。 <片岡重春氏 98年>
(4)お伊勢講
1 12月31日に出発し、お礼参りと初詣をしてくる。 <鈴木修氏 97年>
2 村人の誰でもいい。くじ引きで決める。
3 村人が金を出し合い旅費を作る。 <以上鈴木修氏 98年>
4 伊勢講2人。愛宕講2人。計4人で行く。 <鈴木修氏 98年>
(5)薬師講
1 カミヤクシは天神前の人が、シモヤクシは国安の人々が祀っている講。
<鈴木修氏 97年>
2
薬師講があり(シモ)、彼岸には全長寺のお坊さんにお経をあげてもらう。
<鈴木修氏 97年>
3
正月には薬師講のオコナイがある。 <鈴木修氏 97年>
4 薬師講は、姓によってそれぞれ分かれている。
上薬師ー大岩、中岡、片岡、赤井家 下薬師ー鈴木、伊吹、田中、是洞、東野家
<※ 98年>
(6)彼岸講
1 3月21日に行う。 <鈴木修氏 98年>
2 これが終わると総代が1年間の行事報告と会計報告をする。 <鈴木修氏 98年>
(7)神風(シンプ)講
1 10月17日草岡神社で行う。 <片岡重春氏 98年>
【11】村の組織
1 村の中でも有力者は上座に座るなど、席順も厳しく決まっていた。つまり、昔は有力
者によって村が運営されていた。席順を決める方法については不明。
<片岡昌史氏 96年>
2 納めるお金にも格差があった。ちなみに下余呉には今も格差がある。
<片岡昌史氏 96年>
3 1,資金割り 2,所得割り 3,平等割り の3タイプがあったが、平等割りを採用。
ただし、老人の一人暮らしなどには配慮。
<片岡昌史氏 96年>
4 区長の交代は以前から選挙によるもので1年ごと。まれに、2年続けてつとめるとき
もある。 <片岡昌史氏 96年>
5 戦前は村の有力者がつとめていたと考えられる。
<片岡昌史氏 96年>
6 役員は区長・区長代(各1)・神社係(6、なお、3人づつ半期ごと交代)・実行組
合長・実行副組合長・区議員(5)・土木・山林(長・副)。
<鈴木修氏 97年>
また、体育推進・衛生保健・会計監査もいる。<鈴木修氏 98年>
7
土木・山林は農道修繕と山の草刈り・手入れ・枝打ちなどを仕切るのが主な仕事。
<鈴木修氏 97年>
8 役員の中に元区長が残ることもある。どの役員が区長に残るのかは不明。
<片岡昌史氏 96年>
9 毎年1月15日の区の総会にて選挙を行い、その時全て決定。
<鈴木修氏 97年>
10 この選挙の投票権は家代表として出席した人が一票をもつ。<鈴木修氏 98年>
11 区長は昔は勤め人はならなかったが、現在は勤め人でもなる。<鈴木修氏 97年>
12 区長は昔はひとりが何年も勤めることがあったが、現在はほとんど一年交替である。
<鈴木修氏 97年>
13 普段の生活の中で、今でも屋号を使うことが多い。片岡氏の家は屋号はないが、
「神主のいんきょ」と言う。
14 また、屋号に「モン」のつく家は財産家である。 <片岡重春氏 98年>
15 国安区屋号一覧
1マゴクロ(孫九郎)
2ゲンヤ
3イッチョウモン(市チョウモン)
4キヨモ(清モ)
5サヘエ(左ヘエ)
6ウヘイ(宇平)
7コンヤ(紺屋)
8サブロウ
9ジンベ(甚平)
10キュウダ(九ダ)
11ヤイチ
12シンヤ(新家)
13リンザエモン
14タエモン(田エモン)
15ジンザ
16ジンジロウ
17コヘイ
18ジヨウモン
19ジュウエモン
20トウベ
21イトヤ
22チュウシ
23トウジ
24ヒコザエモン
25ゴンダ
26ブンエモン
27トクロ
28ショウゴ
29ウジ
30センノスケ
31タヘイ
32ソウタ
33イザエモン
34ブンシ
35リンヨ
36ゼンベエ
37ゲンジ
38キチベノシンヤ
39キチベ
【12】産業
(1)稲作
1 国安の農家は、平均3反くらいはつくっている。 <鈴木修氏 97年>
現在は専業が5・6件。後は兼業。 <鈴木修氏 98年>
(2)養蚕
1 以前は養蚕が盛んで、どの農家でも行っていた。 <赤井文彦氏 97年>
2 桑畑も存在し、耕地改良の時ある程度の桑畑を残すことを行政から求められた。
<赤井文彦氏 97年>
3 桑畑は昭和52年まであったが、採算があわず今はもうない。<赤井文彦氏 98年>
(3)林業
1 国安区には山を持っている家と持っていない家がある。
<赤井文彦氏 97年>
2 杉などを植えている。 <赤井文彦氏 97年>
3 傾斜の緩い斜面には昔は水田が開かれていたが、現在は杉が植林されている。
<赤井文彦氏 97年>
(4)その他
1 以前は冬季にはわら細工などを行っていたが、現在は稲作の変化によりわらがとれな
くなったため、行っていない。
<赤井文彦氏 97年>
2 国安には炭焼きをする人が2人いた。 <片岡重春氏 98年>
【13】資史料
(1)文書について
1 文書は集会所に保管され、鍵は区長が持っている。
<片岡昌史氏 96年>
2 江戸時代の国安の絵地図(用水路)が残っている。
<片岡昌史氏 96年>
3 罪人・処罰についてのものもある。
<片岡昌史氏 96年>
4 年1回(区長引継の2月中・下旬頃)、目録と実物の照らし合わせをする。
<片岡昌史氏 96年>
5 五か字の共有文書がある。
<片岡昌史氏 96年>
6 区に関する文書を集めた「ヤチョウ」がある。
<片岡昌史氏 96年>
(2)五か字の共有文書
1 草岡神社の本殿にある。(「封印文書」か? 「新堂」13資史料参照)。
<片岡昌史氏 96年>
2 9月初めの日曜日に年1回の虫干し。
<片岡昌史氏 96年>
3 普段は各区長が割印して絶対見ることができない。
<片岡昌史氏 96年>
(3)「ヤチョウ」
1 『国安区野帳』(小地名がわかる)を区長が保管しているはず。
<赤井文彦氏 97年>
2
内容は山の草刈り場に関する争いや、水利に関する争いのこと。
<片岡昌史氏 96年>
(4)その他
1 『片岡山安養寺十一面観音』パンフレットを入手。(青木保管) <97年>
2 『光勝庵改築の沿革』(光勝庵堂内に掲示)を川口がメモ・保管。 <97年>
3 草岡神社に関する明治期の史料。1050年祭についての史料のコピーを入手
<98年>
☆課題
1 「ヤチョウ」以外の文書はいかなる内容なのか?
【14】その他
1 国安には昔から大火がなかった。
<片岡昌史氏 96年>
2 余呉町国安にしか片岡姓はない。神主の関係ではないかといわれる。
<片岡昌史氏 96年>
☆課題
1
以前行われた、民俗調査や町史編纂時の調査を参考に、全体的な方針をとらえ直す。