『近江国余呉荘現地調査概報V』

新堂地区

 


U新堂
【1】寺
(1)阿弥陀堂 (T1)
1全長寺ができる前、新堂の中に阿弥陀堂があった。
   →聞き取りした場所に確認できず。          <国友喜造氏 96年>
2阿弥陀堂の守が全長寺を発起。今でも全長寺跡の碑が残っている。
                             <国友喜造氏 96年>
3塩売りが、阿弥陀堂に通って病気が治った。守がいなくなったので、その
 塩売りが本尊を敦賀へ持って帰ろうとしたのを村の者が追跡。谷に投げ込
 まれた本尊が敦賀に流れ着き、今、敦賀でまつられている。 <国友喜造氏 96年>
4現在、とくに跡は残っていない。             <国友喜造氏 97年>
5身代わり阿弥陀如来についてのプリント入手。       <白崎金三氏 97年>
(2)法雲山瑞昌寺 (T2)
1地図では瑞昌庵となっている。                 <実見 96年>
2 久昌庵(キュウショウアン)が瑞昌庵にかわった。場所は同じ。
           <国友喜造氏 二矢謙治氏以下、国友二矢両氏とする 98年>
3阿弥陀堂とは関係ない。                <国友二矢両氏 98年>
4 全長寺より成立が古い(戦国時代か)。         <国友二矢両氏 98年>
5 転派によって名前が変わったのではないか。かつては天台宗か。
                            <国友二矢両氏 98年>
6 全長寺ができたので名前が変わったのではないか。
                            <国友二矢両氏 98年>
7全長寺が守。今は空き家。25年前は寺の人がいた。       <※  96年>
8 S19年からS44年ごろまで、今の全長寺の住職がいた。
  →池原班聞き取りによるとS41年。話者平家氏
                            <国友二矢両氏 98年>
9寺のことがあると務める。年一回、盆前の掃除。         <※  96年>
10施餓鬼、涅槃などの行事があった。           <国友喜造氏 96年>
112月初旬 涅槃 道具は寺の中にある。
 8月13日 施餓鬼 先祖の霊を慰める。季節の野菜や果物を供える。
 8月23日 地蔵盆 地蔵にそなえものをする。      <国友喜造氏 97年>
12諸行事には全長寺から住職が来る。
          <国友喜造氏 二矢貞雄氏 二矢謙治氏 
             田中昭一氏 田中道広氏 以下、国友氏他とする 97年>
13行事は涅槃、施餓鬼、地蔵盆のみ。          <国友二矢両氏 98年>
14施餓鬼は瑞昌庵と全長寺でそれぞれ行っている。それぞれの寺で別の日に行うので、
両方の檀家の人は2回行うことになる。<国友二矢両氏 98年>
15涅槃、オコウについて 
 a瑞昌庵では、上座、涅槃を1日で行う。全長寺では、上座1日の後、涅槃をする。計
  3日間。                     <国友二矢両氏 98年> 
bオコウでは涅槃の掛け軸を掛ける。           <国友二矢両氏 98年>
c住職と世話方が作った涅槃団子を、お供えした後、手掴みで(今はセロハンで包む)
まく。団子は餅を丸めたもの。               <国友二矢両氏 98年>
16寺子屋があった。                   <国友喜造氏 96年>
17仏像についての教育委員会の調査のうつし入手。
                           <国友二矢両氏 98年>
18間取りの見取り図あり。                   <実見 98年>
19ツシ(二階的部分)にはたいしたものはない。柴などがある。
                            <国友二矢両氏 98年>
20檀家は23戸。新堂にいるのが17戸、外に出ているのが6戸。
                            <国友二矢両氏 98年>
23瑞昌寺ダ(田)について
 a 瑞昌庵のもっている田がある。      <国友二矢両氏 98年>
 b 瑞昌庵の田は、農地改革で没収されるはずだったがむりして少し残した。
  今は個人所有になっているのではないか。  <国友喜造氏 98年>
 c 瑞昌庵の田畑を圃場整備前地図に落とす(地図参照)。
                             <二矢謙治氏 98年>
 d 特別な呼び名はなく、瑞昌寺ダ、瑞昌寺バタケなどと呼ぶ。
                             <二矢謙治氏 98年>
【2】神社
(1)大水分(オオミズワケ)神社 (J1)
1本殿の前にあるのが拝殿。
  →儀式・祭典時に役員が座る。氏子は下。  <国友喜造氏 96年>2儀式・祭典
  2月27日  五穀豊饒祈念祭(中祭)−祝詞をあげる。
  4月7日   春の大祭−社務所にのぼりを上げる。
  12月31日 大祓(小祭)
         年越祭(小祭)−氏神に感謝する。氏神にお参りした後、社務所に集
         まって大日堂の鐘をつく。鐘は戦争で没収され今はない。
  3月、9月の彼岸入りの前日
         湯の花−石段の前に釜をすえ、お湯の中にお神酒を入れる。その中に
              生米をつぶして丸めたものを笹にひいて社前に備えたあと入
             れる。神官が釜に笹をつけそれをはらう。その湯に触れると
              無病息災になる。         <国友氏他 97年>
3各行事の神主には、文室の北野神社の方を呼ぶ。      <国友喜造氏 96年>
4春の大祭のとき、3人の神官が集まってくる。昔(年代不詳)は西浅井の 集福寺のひ
 とが山越えをしてきていた。のちに草岡神社の片岡トシジロウ 氏(→国安班聞き取り
 によると、年治郎)が行い、現在は文室の村口喜一
 郎氏が神官仲間2人を連れてきて いる。昔はどこから他の神官がきていたかは不明。
      <国友氏他 97年>
5 春の大祭の村口氏の神官仲間はいつも決まった人がくるわけではない。
                      <国友二矢両氏 98年>
6 昔(年代不詳)は春の大祭は厳粛で、巡査や校長も参列した。
                            <国友二矢両氏 98年>
7 春の大祭には国安から楽人がきた。楽人は普段は農業をやっていた。
                            <国友二矢両氏 98年>
8  6 ,7 のようになったのは神社の格式が上がってから。
                            <国友二矢両氏 98年>
9拝殿の神饌棚−三宝にいれて本殿に備えたものを下ろしてきてこの中に入れる。あみ張
 りの引き戸付き戸棚。                  <国友喜造氏 96年>
10神饌棚(シンセンダナ)−供え切れないものを三宝に乗せておく。
                              <国友氏他 97年>
11『伊香郡神社史』(滋賀県神社庁伊香支部編 昭和56年発行)
 大水分神社の項より
 a祭神−天之水分神(アマノミクマリシン)
 b井の明神とも呼ばれ、四ヶ郷の田圃灌漑の神。
 c社域から南へ2丁に池、沼があり、池を二分して参道が作られ池が南と北にに別れる。
  境内には、2町杉森があり「森」という地名になる。
 d二分した池により四ヶ字に相論が起こり、弘治3年(1557)奉行の調停、神託に
  より境内の神木から「枡木」を作り、池の中にふせて配分する水量を定める。「水分
  枡場」といい、片岡郷内共有物。
 e北池では、池原・今市で八反歩、南池では、国安・東野で六反歩ある。 
 f大日堂仮堂を天正13年(1585)に建てる。
 g慶長年間、境内地を全長寺が奉行に申請し獲得。全長寺の虫供養は境内地
 の譲渡への謝恩の遺風。
 h大正末、社殿を再築する。
 i行事 1月7日 初午祭
     4月7日 オコナイ
 j文書 文化財井明神建立帳(正徳4年)
     万願叶堂帳    (享保8年)
     用水下知状    (永禄3年 浅井久政)
     用水論裁許状   (弘治3年 東野左馬亮)
                            <伊香郡神社史 96年>
12大水分神社を預かってもらっているという意識から国安から新堂へお金が 支払われ
  ている。                        <国友氏他 97年>
13大水分神社は井の明神だから、「井の燈明料」として年末に500円を東 野、国安、
 今市、池原からもらっている。             <国友二矢両氏 98年>
14ジンデンについて
 a 参道の両側の田はお宮のもので、ジンデン(神田)と呼んでいる。
                            <国友二矢両氏 98年>
 b田を作るのは当番で行い、オコナイの時、この米でお鏡をついておそなえをする。
                             <国友二矢両氏 98年>
 c大水分神社の田畑を圃場整備前地図に落とす(地図参照)。
                             <二矢謙治氏 98年>
 d田をジンデンと呼ぶ。                 <二矢謙治氏 98年>
12S19年に一の鳥居が地震で倒壊。その壊れたのが今も境内に転がっている。二矢さ
 んが戦争から帰ってきても壊れていた。         <国友二矢両氏 98年>
(2)大日堂

1現在の大水分神社の場所には大日堂があり、その守護社として稲荷神社があった。
                                <国友氏他 97年>
2現在の拝殿の位置から、S2年に今の場所に移る。
                            <国友二矢両氏 98年>
3今の拝殿の位置に大日堂があり、今の大日堂の位置にはなにもなかった。 山を削って
 大日堂を建てた。                   <国友二矢両氏 98年>
4今の大水分神社のある領域ではメインは大日堂だった。

(3)大浴(オオアビ)神社
1大水分神社の境内社                      <※  96年>
2伊香郡46座の式内神社。                   <※  96年>
3「大浴の森」のなかに「釜ヶ渕」と呼ばれる亀の形をした渕があり、
大蛇が棲息し通行する人を悩ませたので大浴の森に「大貴己命」を鎮祭した。
     <※  96年>
4賤ヶ岳の戦いで炎上し、大水分神社境内の稲荷に合祀され後に独立。
                          <※  96年>
5大水分神社も一緒にまつられていた。大水分・大浴・稲荷の3つがあった
 時期もある。それから大水分だけがS2年(工事はT14、5年から)に真ん中に移った。
                                 <国友二矢両氏 98年>
(4)稲荷神社
1伏見深草の稲荷を勧進                     <※  96年>
21月7日 初午祭 人形奉納−「新堂の初午」          <※  96年>
3現在の大水分神社の場所には大日堂があり、その守護社として稲荷神社が
 あった。大 水分神社が現在の地に移ってくると大日堂は右側に移った。また、大浴神社が移ってく
 ると稲荷神社は合祀され、現在の形になった。
                              <国友氏他 97年>
4かつては今の野神の隣にあった。            <国友二矢両氏 98年>
5力が落ちたので今の位置に降ろされた。         <国友二矢両氏 98年>
(5)秋葉神社 (J2)
1木の鳥居と自然石の御神体。まわりにも石を散らしてある。スケッチ、写
 真あり。                                 <実見 97年>
【3】石造物・金石
(1)アタゴサン (●1〜4)
1アタゴサン(お札を入れた箱)は新堂に4つある。札は道沿いに3点。もう1点は大水
 分神社の近く(旅人の火の用心のため)。         <国友喜造氏 96年>
4お札とシキビ(シキミ、樒)を取ってくる。お札はアタゴサンに入れる。
                            <国友二矢両氏 98年>
2今は毎年3月、当番2人でとりに行く。S28年以前は正月に、1戸で行っていた。戦
 時中はやめていた                   <国友二矢両氏 98年>
3取りに行く際、行事らしい行事はない。帰ってきた晩に役員に報告し、食事をする。役
 員だけが関わる。(食事などを行っているが、行事としての意識はない。)
                                 <国友二矢両氏 98年>
5前(年代不詳)は伊勢への代参があった。戦前は行っていた。
                            <国友二矢両氏 98年>
(2)瑞昌寺の地蔵(△)
1地蔵の銘「文化三年七月‥‥、施主原田‥‥」          <実見 96年>
2瑞昌寺の方が地蔵をたてた。地蔵盆に施餓鬼をする。瑞昌寺、全長寺のどちらでも行う。
 つまり新堂の人は2かいまつる。                <※  96年>
3ここは瑞昌寺の入り口にあたる。              <国友氏他 97年>
(3)新堂の入り口の休み台(■)
1新堂の入り口に休み台があった。→どのような物か不明。
                             <国友喜造氏 96年>
2位置は確認。跡は見当たらず。                 <実見 97年>
3北国街道から新堂へ入る入り口に休み台が何個かおいてあった。
                              <国友氏他 97年>
(4)高札
1山の余呉湖と塩津に別れる道の分かれ目に高札があった。「旅人は塩津、
荷物は飯之浦(ハンノウラ)へ行け」と書いてあった。
 →どのような物か不明。                 <国友喜造氏 96年>
2余呉湖と塩津へ道が分かれるところに江戸幕府が立てた高札場があった。
                             <国友喜造氏 96年>
(5)野神 (×)
1以前は毛受兄弟の墓のある位置にあったが、明治9年に墓をつくるとき現
 在の位置に移された。                           <※  96年>
2移転前の野神について
 aケヤキの古木の根元に2メートル四方ぐらいの石組みがあった。
                            <国友二矢両氏 98年>
 b野神にケヤキはつきものだった。           <国友二矢両氏 98年>
(6)その他
1全長寺から新堂へ野道の途中にある地蔵を発見。写真、メモを取る。(□)
                                <実見 98年>
【4】村と村との関係
(1)池原と新堂の相論
1年貢のわけ方などは池原で決めていた。          <白崎金三氏 97年>
2庄屋は新堂からは出せなかった。             <白崎金三氏 97年>
3入会地のことで相論。                  <白崎金三氏 97年>
4大阪の保科藩の淀の詰所へ何度も独立を訴えている。
                             <白崎金三氏 97年>
5江戸中期(元禄以降)狂言のことで池原と争った(文書より)。
                             <国友喜造氏 96年>
(2)井の燈明料
1大水分神社を預かってもらっているという意識から国安から新堂へお金が
 はらわれている。                           <国友氏他 97年>
2大水分神社は井の明神だから、「井の燈明料」として年末に500円を東
 野、国安、今市、池原からもらっている。              <国友二矢両氏 98年>
(3)その他
1今市と出町は、お隣なのでテレビの配線などは同じ。余呉町の枠になって
 から。それ以前は、出町は新堂との繋がりのほうが深い。
                             <畑野崇子氏 98年>
2今市と出町の境は旧国道。                <畑野崇子氏 98年>
3今市でも出町でも田をカワムコウ(川の向こう、新堂側と思われる)に持っている。
                             <畑野崇子氏 98年>
【5】葬制
(1)葬式
1親類で行う。葬列では、前に旗を持つ人(マエバタ)と後ろに旗を持つ人 (ウシロバ
 タ)がいる。                      <国友喜造氏 96年>
2葬列の旗について
 aマエバタ、ウシロバタそれぞれ2本づつで、故人と血縁の薄い男がもつ。
                                 <国友二矢両氏 98年>
b旗には、それぞれ違う字が書いてある。         <国友二矢両氏 98年>
 c旗は竹でできており、その竹は蛇をかたどっている。
                            <国友二矢両氏 98年>
d竹の頭にジャトウ(蛇頭)をつけ、舌を出す。耳は枇杷の葉で作る。
                            <国友二矢両氏 98年>
e胴体は鱗を書いた紙。鱗は全長寺の住職が書く。紙に3メートルくらい の竹を通す。
                            <国友二矢両氏 98年>
fこの蛇の竹竿は親類が作る。              <国友二矢両氏 98年>
3葬列について
 a旗、ウチビ、たいまつ、供物、傘(杖)、コシ(輿)などがある。
                            <国友二矢両氏 98年>
b故人と縁の一番濃い人が位牌を持つ。          <国友二矢両氏 98年>
cコシ(輿)は縁の濃い人がもつ。その中でも濃い人が故人の顔の前に位置する。
                            <国友二矢両氏 98年>
d前旗、松明(子供が持つ)、打火(子供が持つ)、ホリ(掘る道具。実際は掘らない)、
供花(お供の花)、杖笠、鶴亀(亀の上に鶴をかたどった蝋燭たて。スケッチあり)、
香爐、四花、御飯、位牌、棺、写真(昔はない)、天蓋(日除け。縁の濃い人が持つ。
兄弟の場合姉婿が、親の場合娘婿が持つ。)、後旗、以上葬列順。
                                   <二矢謙治氏 98年>
e現在は霊柩車のところまで葬列を組む。          <二矢謙治氏 98年>
f葬列中に転ぶと早死にするといわれていた。       <国友二矢両氏 98年>
4 棺について
 a後ろ向きに座らせる。                <国友二矢両氏 98年>
 b前か後ろか分かるように、顔が見えるように穴がついている。
                            <国友二矢両氏 98年>
 c輿に乗せて運ぶ。正面長さ1尺7寸、高さ2尺3寸(奥行きは不明)。役場で用意し
 た。                          <二矢謙治氏 98年>
 d色とりどりの紙で飾られた。             <国友二矢両氏 98年>
(2)道
1葬送のとき、通る道は決まっている。(■)        <国友喜造氏 96年>
(3)山埋(サンマイ) (A)
1ウシロバタにあった。                  <国友喜造氏 96年>
2江戸時代は村のいろいろな場所にバラバラに埋めていたが、まとめた。そ
 のことを示す碑がある。                       <国友喜造氏 96年>
3碑は元文年間にまとめたものであることを示す。
                              <国友氏他 97年>
4碑の銘の写を入手                     <国友氏他 97年>
3周りに五輪塔の残欠が存在。→空風輪、火輪、一石五輪
                             <国友喜造氏 96年>
5棺を乗せる石と坊さんが座る石がある。          <国友喜造氏 96年>
6碑の斜め前の石垣に六地蔵があった。現在新しい墓(新堂霊園)に移転さ
 れ屋根の下にならんでいる。横の屋根無しは路傍のものをまとめたもの。
                                         <国友喜造氏 96年>
7ウシロバタは通称地名で小字ではない。           <国友氏他 97年>
8まとめる前はバラバラに埋めていた。          <国友二矢両氏 98年>
 土地のない小作人は、本家の近くに(ちょっと離れて)埋められた。小作人は本家に頼
 るしかないから。                   <国友二矢両氏 98年>
(4)新堂霊園
1五輪約150体                        <実見 97年>
2S53年、国友喜造氏が発起人となって霊園を作った。
                            <国友二矢両氏 98年>
3周囲はオコウに出すみそ汁の大根などの野菜を作る土地で、オコワリという。
                            <国友二矢両氏 98年>
4土地のない水呑百姓もオコウの野菜が出せるように、新堂全員に割り当てられた。
                            <国友二矢両氏 98年>
5割り当て方法は4年ごとの抽選。            <国友二矢両氏 98年>
6オコワリをシダワラともいう。シダ(芝)、オニシバが良く生えた
                            <国友二矢両氏 98年>
7霊園の前の茶畑もオコワリの内。            <国友二矢両氏 98年>
(5)個人墓
1鈴木氏の墓 (B)                      <実見 96年>
2大水分神社の脇の詣墓 (C)                 <実見 96年>
3スケッチ、写真あり。                     <実見 98年>
【6】年中行事
(1)初午
1初午(2月初め)に豊作祈願のために人形をつくる(戦時中はやめた)。等身大ぐらい
 (二宮金次郎など)で、その人形に似合う服があれば村から借りてくる。昔(年代不詳)
 は10体ぐらいだったが現存するのは頭部が3体ほど。
                             <国友喜造氏 96年>
2稲荷神社の祭である。                   <国友氏他 97年>
3社務所で行う。                      <国友氏他 97年>
4生活用品で人形をつくる。体はワラ。四肢は竹などを使う。
                              <国友氏他 97年>
5年ごとに教訓(物語)になる1つの場面をつくる。人形の数は年によって 違う。
                                <国友氏他 97年>
6初午の日、1日だけ行い、祭りが終わると人形は壊す。
                            <国友二矢両氏 98年>
7人形は社務所の入り口のところに飾る。         <国友二矢両氏 98年>
8人形に使う生活用品は、鍋などのまさに生活用品といえるもの。
                            <国友二矢両氏 98年>
(2)虫供養
17月1日に全長寺に五ヵ字の区長を招いて行う。<国友喜造氏 96年>
2慶長年間、大水分神社の境内地を全長寺が奉行に申請し獲得。全長寺の虫供養は
境内地の譲渡への謝恩の遺風。                 <伊香郡神社史 96年>
3大水分神社の敷地をもらったお礼に、全長寺が区長を招く。
                            <国友二矢両氏 98年>
4虫供養のお札
 a 田に差している所がある。( )               <実見 98年>
 b 1 赤の帯−「汝与有情」 白の帯−「普皆飽満」
   2 赤の帯−「汝与有情」 白の帯−なし
    →小島メモ参照                     <実見 98年>
(3)オコナイ
11月7日「オコナイ」(別名「ジンジ」) 新堂の氏子により、餅つき(鏡餅)をし、も
 ち花を作る。オコナイ番(=ジンジ番)は順番。鏡餅の中に川沿い(10参照)に生え
 ている柳の木をいれる。餅つきの道具は各戸 で所有しているものを使用。鏡餅は大日
 堂、大水分、大浴にそれぞれ供え る。その後、皆に配る。オコナイの時、マユダマを
 子供に持たせて三社に供える。              <国友喜造氏 96年>
212月9日「ヤマコウ」の時に次のオコナイのジンジ番が決まる。次のオ
 コナイの時に実際に交替する。                    <国友喜造氏 96年>
3大日堂を中心に行う。                   <国友氏他 97年>
4マユダマは1つの枝に11個。マユダマ1個の大きさはこぶし大。
                              <国友氏他 97年>
5マユダマを持たせる子供は当番が決める。          <国友氏他 97年>
6オコナイ番は順番が決まっている。3人づつ。        <国友氏他 97年>
7柳を使って御神体を作る。柳を芯に使う。        <国友二矢両氏 98年>
8 40センチくらい(柳がなのか、御神体がなのか不明)。
                            <国友二矢両氏 98年>
9昔は(年代不詳)皆に配り、苗代の水口にさした。    <国友二矢両氏 98年>
10主に余呉川に生えている柳を使う。          <国友二矢両氏 98年>
(4)秋の神事
1秋葉神社(J2)と大日堂のお祭。             <国友氏他 97年>
29月11日にある。                    <国友氏他 97年>
3大日堂の祭りで、全長寺の住職が読経を行う。      <国友二矢両氏 98年>
4現在はその後、同じ日に秋葉神社に参っているが、元は別だった。
                            <国友二矢両氏 98年>
【7】用水
1明治時代の用水路の地図は区長が保管。          <是洞信夫氏 96年>
2昔の大きい地図が存在する。               <是洞信夫氏 96年>
3全長寺ができる以前から水分枡場があった。         <国友氏他 97年>
4勘定川から全長寺の枡場、升堤へと流れていた。       <国友氏他 97年>
5全長寺の参道ぎりぎりまで南池があった。          <国友氏他 97年>
6全長寺の前には湧き水が多い。               <国友氏他 97年>
7地下水は2〜3メートル下にある。             <国友氏他 97年>
8立ち会いで水分けをしていたのではないかと考えられる。
                              <国友氏他 97年>
9新堂の池の事は分からないが、大池という地名があるので池があったのではないか。
                              <国友氏他 97年>
10水くみ池(湧き水)があった。飲むと極楽に行ける(末期の水)。生活用水、飲料水
  として利用。→三叉路の土管から10メートルの場所(確認済)
                              <国友氏他 97年>
11毛受兄弟の墓の周りの田は、山からの湧き水を利用している。
                              <国友氏他 97年>
12渇水時にはヤシャ池に参った。小さなほこらがある。
                              <国友氏他 97年>
13草岡神社で雨乞いの踊りをする場合もある。四ヵ字(東野・今市・国安・ 池原)で
 行った。                         <国友氏他 97年>
14ヒは北池の枡場の反対の岸から1/3ぐらいの水中(地図参照)にあった。抜くには
 5人くらいで泳ぎながら抜く。池の魚は早い者勝ち。
                              <国友氏他 97年>
15北の池の水は一部は湧き水。               <国友氏他 97年>
16明治時代の用水図のことは聞いたことがない。     <国友二矢両氏 98年>
17区長が番水帳を持っている。             <国友二矢両氏 98年>
18全長寺の前にあった2つの池の呼び名は、ミナミ(キタ)イケではなく、ミナミ(キ
 タ)ヅツミ。                     <国友二矢両氏 98年>
19ヤシャ池はヤシャガイケともいう。ヤシャは夜叉。
                            <国友二矢両氏 98年>
20夜叉池は福井県の三国峠の先にあり、夜叉龍神社がある。
                            <国友二矢両氏 98年>
21枡場の構造
 a横と下が石で出来ている。              <国友二矢両氏 98年>
 bソマカド(杣角)に切った板をおく。板は水平で偏りはない。
                            <国友二矢両氏 98年>
22枡場にたまった砂を掻き出した砂山がある。ここの掃除は区長が集まって入札する。
                            <国友二矢両氏 98年>
23北池はすでに半分ぐらい田だった。南池は満杯の様子を見たことがあるが、北池はな
 い。(話者が覚えている範囲で)            <国友二矢両氏 98年>
24その北池に土をもらいに行った。壁の塗り土に使う。
                            <国友二矢両氏 98年>
25大水分神社の前にあったという池については分からない。
                            <国友二矢両氏 98年>
26渇水の時に水を止めて新堂に流す分水点があった。
                            <国友二矢両氏 98年>
27ナカノタニの周辺の田は中ノ谷の谷水を使っている。(地図参照)
                             <和田秀和氏 98年>
28ナカノタニの上の池は、新堂の消火用。         <和田秀和氏 98年>
29ナカノタニは、昔(年代不詳)から田で、凄い湿地で機械が入れなかった。
                             <和田秀和氏 98年>
30ナカノタニの今荒れ地の辺りは田は少し。        <和田秀和氏 98年>
31新堂一帯は、基本的に水が不足する地域で、それの解消のためにナカノタニの杉林に
 なっている部分をため池にすることになっている。
                             <和田秀和氏 98年>
32東から入水して西に排水することになっているが入水した溝に排水もしている。圃場
 整備がうまくいっていない。               <和田秀和氏 98年>
33エベスボラの辺りは「耕土改善」までは畑だったのを田に変えた。
                             <和田秀和氏 98年>
34ナカノタニの辺りは「耕土改善」の前から田だった。
                             <和田秀和氏 98年>
35モリノウエとその西は「耕土改善」の前は畑だった。
                             <和田秀和氏 98年>
【8】道
1北国から椿坂・塩津への道は新堂を通る。(■)      <国友喜造氏 96年>
2葬送のとき通る道は決まっている。(■)         <国友喜造氏 96年>
3池原のほうへ向かう昔の本道。(■)              <※  96年>
4全長寺の参道の地蔵まで大水分神社から1本道があった。
                              <国友氏他 97年>
【9】地名(小字・通称名)
1ブクデン 水がないので番水のときに一番先に水をもらう。
                            <国友二矢両氏 98年>
2アゲホラ 揚洞か?                  <国友二矢両氏 98年>
3ヒノシリ(樋ノ尻) 小字名              <国友二矢両氏 98年>
4ジョノコシ(城ノコシ) コシは越か腰か?       <国友二矢両氏 98年>
5 ジョノコシのコシは腰。                 <二矢謙治氏 98年>
6カワラダ 昔、河原だった。              <国友二矢両氏 98年>
7コワキ(小湧) 水がちょこちょこと湧く。       <国友二矢両氏 98年>
8キノシタ ハンの木があった。             <国友二矢両氏 98年>
9コノシタ 木の下か?                 <国友二矢両氏 98年>
10モンノエ(門ノ上)                 <国友二矢両氏 98年>
11ドバシ 土橋そのものがあった。           <国友二矢両氏 98年>
12カケガワラ 山が余呉川の氾濫で洗われて欠けたところ。
                            <国友二矢両氏 98年>
13ヌケト 余呉川の氾濫で、ここから水が抜けて先(下流域)が全部洗われる。
                            <国友二矢両氏 98年>
14キシノシタ 落差のせいで岸になったところのした。
                            <国友二矢両氏 98年>
15シンドウマエ(新堂前) 小字名。           <国友喜造氏 98年>
16マエダ 小字名新堂前にある田だから。         <国友喜造氏 98年>
17オコワリ オコウに出すみそ汁の大根などの野菜を作る土地。
                            <国友二矢両氏 98年>
18オコワリをシダワラともいう。シダ(芝)、オニシバが良く生えた
                            <国友二矢両氏 98年>
19シダワラ 紫駄原とかいてあるのをかつて見た記憶がある。
                             <二矢謙治氏 98年>
20ナカノタニ 中ノ谷という谷の前にあるので、田をそう呼ぶ。
                             <和田秀和氏 98年>
21エベスボラ                      <和田秀和氏 98年>
22コヤシ                        <和田秀和氏 98年>
23モリノウエ                      <和田秀和氏 98年>
24カケガヘラ 欠ヶ辺                     <実見 98年>
25ハヤシダニ 林谷                      <実見 98年>
26大黒                            <実見 98年>
27ロクロシ 六老師                      <実見 98年>
【10】講
112月9日「ヤマコウ」では朝食でうち豆(村で作った大豆をつぶしたもの)の入った
 みそ汁を食べる。                    <国友喜造氏 96年>
2山から薪を取ったりするので、ヤマコウは山に対する感謝を表す。
                             <国友喜造氏 96年>
3昔(年代不詳)は4回講があった。
  1月  モノギメ講(総会)
  2月  田畑の計画、水のこと(農事)
  8月  野神さん
  12月 山講−番の家(個人宅)で行う。        <国友喜造氏 96年>
4現在は4つの講が合併している。終戦の翌年(昭和21年)に廃止もいわれたが1つに
 併せて存続。→ヤマコウ                 <国友喜造氏 96年>
54つの神、各々の掛け軸4つを番の家にかける。      <国友喜造氏 96年>
6掛け軸は大水分神社の社務所にある。           <国友喜造氏 96年>
7三夜講(1月)→庚申講ではない(大明神)、秋葉さん(2月)、野神(8月)、山の神
 (12月)                       <国友喜造氏 96年>
8ヤマオコウ(山講)
 aうち豆−大豆を軽くゆでる。これをみそ汁にいれる。他に大根、カブラが入る。
                              <国友氏他 97年>
 b昔(年代不詳)はノカブラ(野生のカブラ)を使った。
                              <国友氏他 97年>
 c子供が木槌で豆を打つ。                 <国友氏他 97年>
 dオコウジルは2人の当番の人が作る。           <国友氏他 97年>
 e来年のジンジ番が決まる。                <国友氏他 97年>
9オコウの時はその季節の旬の物を食べる。          <国友氏他 97年>
10庚申講はない。                     <国友氏他 97年>
11野神講 8月25日
 a午前中に集まり、三社の脇の階段を登り野神に供え物(ナスビ)をしてお神酒をいた
 だく。=直会(ナオライ)                <国友氏他 97年>
 b午後は草岡神社の祭。野神講のあと社務所で音合わせをする。池原と新堂は城山のと
  ころに13:00までに集合し順番にしたがって草岡神社に入る。
                              <国友氏他 97年>
 c入る順番は、国安、池原、今市、東野、文室の順。
                              <国友氏他 97年>
 d何か非礼があると動かずにいて次を入れさせない。
                              <国友氏他 97年>
 e案内状を出した順番は文室、池原、新堂、今市、東野の順。
                              <国友氏他 97年>
 f服装は浴衣に帯、ゲタ、年長組はハオリ。         <国友氏他 97年>
12S28,9年に4回の講をヤマコウにまとめた。
                            <国友二矢両氏 98年>
13モノギメ講では、区長や役員の選出、田植えの時期などの農業関係の申し合わせ、年
 中行事のことを決めた。     <国友二矢両氏 98年>
14モノギメ講と三夜講は同じ。三夜とは、三日月、結婚・誕生から三夜のこと。
                            <国友二矢両氏 98年>
15観音講はない。                   <国友二矢両氏 98年>
【11】村の組織
(1)青年会
1 15歳の若者は前髪と呼ばれる。             <国友氏他 97年>
2かぞえで15歳になると酒2升、豆腐2丁を青年会に対して差し出し大人として認めて
 もらう。青年会への入会を意味する。            <国友氏他 97年>
315歳からが前髪。                  <国友二矢両氏 98年>
4次に15歳になった人が入ってくるまで前髪を続ける。
                            <国友二矢両氏 98年>
5前髪は用務員のようなもの。小走り連絡、買い物などをする。
                             <国友喜造氏 98年>
6前髪という名称の由来は不明。              <国友喜造氏 98年>
(2)座
1観音南座
 a万福寺のところに山をもっており、皆で山の手入れをし、食事などをする。
                            <国友二矢両氏 98年>
 b裕福な人が多く、昔(年代不詳)はかなり豪華にやっていた。
                            <国友二矢両氏 98年>
 c新堂からも入っている。               <国友二矢両氏 98年>
 d山本忠兵衛(キュウベエ?)、藤原が有力者。
                            <国友二矢両氏 98年>
2観音北座、天神座がある。
  →池原、新堂からも入っている。           <国友二矢両氏 98年>
3座の構成員のメモ入手。                <国友二矢両氏 98年>
(3)屋号
1各家の屋号のメモ入手。                <国友二矢両氏 98年>
(4)組
1西、中、南、東、出町の各組がある。           <是洞喜運氏 98年>
2出町は国道付近。旧国道までの11戸。          <是洞喜運氏 98年>
3組は行事などの集金、区長からの回覧板、農協の注文、斡旋物の取扱いをする。
                             <国友喜造氏 98年>
4基本的に組で講をやったりはしない。           <国友喜造氏 98年>
5組長は輪番制。                     <国友喜造氏 98年>
7組の構成員のメモ入手。                 <国友喜造氏 98年>
8出町(デマチ)の名は今市のほうに出てきたから。
                             <畑野崇子氏 98年>
9出町というのはこの通り(旧国道)のだけ。        <川瀬良夫氏 98年>
10出町は新堂からの分家だが、いつごろ分家したかは分からない。
                             <川瀬良夫氏 98年>
(5)区
1区長の仕事としては、区をまとめる、行事関係の整備、会議の進行などがある。
                             <是洞喜運氏 98年>
2区として行う行事として、秋葉祭、野神祭、オコナイがある。
                             <是洞喜運 氏98年>
3決算総会(2月)、予算総会を行う。区長は実際には12月、1月には決まっているが、
 正式には決算総会で決まる。               <是洞喜運氏 98年>
4区長は昔(年代不詳)は選挙で選んでいたが、簡単には決まらなかった。今は順番制だ
 が、変更しようと考え、議員、環境整備委員と話し合っている。
                             <是洞喜運氏 98年>
5区長は年寄りがやっていたが、14、5年前くらいから若い人がやるようになった。現
 在は区長代理、議員に経験者を選んでいる。
                             <是洞喜運氏 98年>
6区として管理しているものには、文書、申し送り文、区長のしていたことの記録、会計
 関係記録、議事録がある。                <是洞喜運氏 98年>
7区長が一部を家に持っていたりするが、文書は基本的には草の根会館にある。
                             <是洞喜運氏 98年>
8池原の文書管理に新堂が参加。そうなったのは区になってから。管理といっても、ある
 かどうかをチェックする程度。              <是洞喜運氏 98年>
9引継ぎの時に古文書の内容を知る。            <是洞喜運氏 98年>
10区の組織のメモあり。                    <実見 98年>
11環境委員は数年やってもらう。毎年変わるのは婦人会長、老人会長。区長代理は最低
 2年はやる。区長と区長代理が同時に変わると仕事が分からなくなるから。
                             <是洞喜運氏 98年>
【12】産業
1畑では、主として大豆を作った。その他には、小豆、甘藷(ここ50年ほど)、桑。
                             <国友二矢両氏 98年>
2桑は、戦中までは盛んだった。戦後は少しやっていた。
                            <国友二矢両氏 98年>
3新堂一帯は畑が多く、桑を作っていた。          <和田秀和氏 98年>
4昔(年代不詳)、薪を町(どこか不明)に売っていた。
                             <和田秀和氏 98年>
5今市は基本的に昔から農業をやっている。         <畑野崇子氏 98年>
【13】資史料
(1)区有文書
1区の文書は若干あり、区長が保管。山林・草刈などの相論に関するものが多い。
                             <国友喜造氏 96年>
2お宮(どの神社をさすか不明)を隣(池原)のものとまねた。
                             <国友喜造氏 96年>
3江戸中期(元禄以降)狂言のことで池原と争った(文書より)。
                             <国友喜造氏 96年>
4区長が一部を家に持っていたりするが、文書は基本的には草の根会館にある。
                             <是洞喜運氏 98年>
5池原の文書管理に新堂が参加。そうなったのは区になってから。管理といっても、ある
 かどうかをチェックする程度。              <是洞喜運氏 98年>
6引継ぎの時に古文書の内容を知る。            <是洞喜運氏 98年>
(2)封印文書について
1草岡神社の本殿下に保存。社務所で開く。         <白崎金三氏 96年>
2所収文書
 「片岡郷と山家三村草刈相論に関する文書」(応安4年・1371)
  →山家三村(ヤマガサンソン)−椿坂、柳ヶ瀬、小谷
 「掃部頭様加増安堵状」(慶長2年・1597・2月25日)
 「太閤検地に関する文書」(慶長2年・1597、7年・1602)
 「山論覚えに関する文書」(寛文元年・1661)
  →彦根藩によって決着されている。
 「井伊掃部頭様御領分絵図」(宝暦8年・1758・3月、再天保13年  ・184
               2年・2月)           <実見 96年>
3所収は入会山の相論について(相論の経過と裁定)。町誌に大体が載っている。
                             <白崎金三氏 97年>
4四ヵ字(東野・今市・国安・池原)の相論は約300年続いていた。
                             <白崎金三氏 97年>
5「井伊掃部頭様御領分絵図」について
 a裁定の絵図。
 b山家三村にも同じものがある。
 c裏に裁定の内容と奉行の名前が書かれている。
 d宝暦8年の裁定はあまり守られなかったので再び幕府が天保13年に裁定を下し、百
  姓全員から誓約書を取った。
 e誓約書は自分達で保管している。
 f山家三村では血判、国安ではコクハン。   <白崎金三氏 97年>

6文書は1つの箱にいれてひもで結び、さらに紙で結び各区長の判を押す。
                             <白崎金三氏 97年>
7虫干しの日は決まっていない。各区長の都合のいい日。
                             <白崎金三氏 97年>
(3)その他
1鈴木家の文書があれば、より詳しく余呉の歴史が明らかになると思われる。
                             <白崎金三氏 96年>
2鈴木家は柳ヶ瀬の鈴木家のことで、文書はほとんど残っていない。
                             <白崎金三氏 97年>
3柳ヶ瀬の関所の文書は木之本の江北図書館にある。
                             <白崎金三氏 97年>
4「太閤検地に関する文書」について
 a針川文書に所収。 →針川:旧丹生村
 b太閤検地の検地帳のうつし。
 c天正拾九年四月三日の日付。              <白崎金三氏 97年>
【14】その他
(1)城山(ジョウヤマ)
1周りには堀があって山が二段になっている。           <※  96年>
2東野豊前守の砦ではないかと思われる。             <※  96年>
(2)今市十王堂(旧街道沿い)
1資料『今市十王堂の由緒』入手。
2仏、金箔の仏、閻魔大王、随神9体、異形の坊主の座像が安置。
                             <浅芽昭五氏 96年>
3文書は焼け、話者の父が1の資料を書いて区長代理が保管。
                             <浅芽昭五氏 96年>
4堂守りの番は1年1回行う(およそ50戸あるので50年に1回まわってくる)。この
 年は話者が当番だった。                 <浅芽昭五氏 96年>
5堂は全長寺の真正面に位置する。             <浅芽昭五氏 96年>
6堂の裏手で道樹和尚が即身仏になる。           <浅芽昭五氏 96年>
7『由緒』によれば昔(年代不詳)は十王堂を今市山総前寺と呼んでいた。
                             <浅芽昭五氏 96年>
(3)天満宮、鳥居(旧街道沿い)
1灯籠の銘「文久二年米方中」                  <実見 96年>
(4)供養塔(旧街道沿い)
1銘:正面「奉 納経 諸国仏神供養塔」
   向かって右「寛政十年戊戌九月」
   向かって左「行者道屋全 (=庵?)主」          <実見 96年>
(5)全長寺バタケ
1江戸期にはあったが、農地改革により無くなった。      <国友氏他 97年>
2細かく散在していた。                   <国友氏他 97年>
3全長寺の田畑を圃場整備前地図に落とす(地図参照)。
                             <二矢謙治氏 98年>
4特別な呼び名はなく、全長寺ダ、全長寺バタケと呼ぶ。
                             <二矢謙治氏 98年>
(6)入会地
1新堂辺りの山はすべて惣山だった。           <国友二矢両氏 98年>
2池原の権利が強かった。                <国友二矢両氏 98年>
3M33(1900)年に割山で新堂も権利を手に入れた。
                            <国友二矢両氏 98年>
4割山はロクロシなどにある。               <是洞喜運氏 98年>
5割山は、区で特に管理しているわけではなく、名義的には個人に割り当てらている。
                             <是洞喜運氏 98年>
6昭和十何年かにもわけたらしい。             <是洞喜運氏 98年>
7あと2年で期限がくるので検討している。         <是洞喜運氏 98年>
8文書                             <実見 96年>
 a『割山番号簿』『割山規約』
 b「大字池原 明治三拾三年四月 第十号」の記述
 c当時区長 和田与惣次郎
 d場所 字欠ヶ辺(カケガヘラ)
     字林谷
     字大黒
     字六老師(ロクロシ)谷北又北側
     字六老師谷北又南側

(7)その他
1 大池の手前の杉は20年前に植えたもの。         <二矢謙治氏 98年>
2イノシシよけとして今はトタンで柵を作っている。昔(年代不詳)はシシガキという柵
 を作っていた。                     <二矢謙治氏 98年>
3昔(年代不詳)のシシガキは、山の上から当番が管理している。
                             <二矢謙治氏 98年>
【15】入手資史料
(1)古文書
1なし
(2)古地図・地図
1なし
(3)パンフレット類
1『今市十王堂の由緒』
2『身代わり阿弥陀如来』                 <白崎金三氏 97年>


(4)その他
1山埋内碑銘文(写し)                   <国友氏他 97年>
2瑞昌寺の仏像の写真

・新堂(追加調査)
【10】講
1野神講(8月25日)                     <実見 98年>
9:00  大水分神社社務所に集合。各自で神社に参拝。
      区長が前に出て、軸に向かって全員で参る。(二拝二拍手一拝)9:05
       社務所から野神まで行列を作っていく。
      先頭は区長、榊とつづく。ほら貝×2、笛×2、太鼓、チャン
            チキ。三宝に酒、米をいれる。
9:10  野神に参る。その場で、米、酒を皆で食べる。
      同じように行列を作って社務所に戻る。
9:25  直会。
      拍手をはさんで、お神酒を飲む。その後、当番(?)の挨拶。
12:15 青年会集合。音合わせを行う。
12:35 大水分神社にお参りしてから出発。
      チャンチキ×2、太鼓、年長者の順。
12:50 城山で池原と合流。
13:10 草岡神社に入る。入る時に太鼓、チャンチキのたたきかたを変
            える。

15:00 かえる。
15:15 池原と別れる。
15:20 大水分神社につく。もらってきた酒を供え、全員で参る。
      解散。

2草岡神社にはいる順番は文室、池原、今市、東野。        <実見 98年>
3講に使う軸は、現在のものはもとの軸を復元したもの。
                 <是洞 隆氏、新堂利美氏、国友正章氏 98年>
4一度に講をやってしまうので、本来はどの軸をどの講に使う、という事は わからない。
                 <是洞 隆氏、新堂利美氏、国友正章氏 98年>
5野神への行列は、区長を神主に見立てて、神社長、区長代理、農組長と続く。
                 <是洞 隆氏、新堂利美氏、国友正章氏 98年>
【4】村と村との関係
(2)井の燈明料
1文室からも500円をもらっている。
                 <是洞 隆氏、新堂利美氏、国友正章氏 98年>

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