『近江国余呉荘現地調査概報V』
余呉荘の概要
「余呉」の地名は、すでに『近江国風土記』の逸文*1に「近江の国伊香の郡輿胡の郷」と見えており、その名称の起源は和銅六年(713)以前にさかのぼる可能性もある。また、その他余呉の名は『和名抄』『今昔物語集』などにも見えている。しかし、この地域が何時、どのような経過で中世的所領呼称である「余呉荘」と称されるようになったかは、史料上窺うことはできない。
余呉荘の荘域は広く、現在の余呉町全域に加え、木之元町の飯浦までをも含む地域と比定されている。北国街道の要衝であるとともに、飯浦を含むことで、琵琶湖水運を経由して京へも通ずる重要な地域であり、「要害所」と称されたことも肯ける*2。
この地が「余呉庄」として史料上最初に登場するのは、文和元年(1352)十月、佐々木道誉が足利義詮からこの地の地頭職に補任された時点である*3。しかし、そのときの文書を見ても当時の余呉荘にはすでに「領家年貢」が設定されており、これ以前にこの地が荘園制的な知行体系の下に組み込まれていたことは明らかである。
そして、この「領家」とは、永和三年(1377)の「散位成顕契約状案」を見ると藤原北家流の公家、大炊御門家であることがわかる*4。この文書では、領家大炊御門家が荘園知行に関して何らかの訴訟を起こし、余呉荘下郷の打渡を受けることで和与が成立しているが、この相論の相手は、道誉以降この地の地頭職を相伝してきた佐々木京極氏であろう。
その他余呉荘には、高時川流域の丹生・菅並の領家職として山城金蓮寺が存在した*5。しかし永和五年(1379)に金蓮寺領の半分が山城地蔵院に寄進されており、また応永二十四年(1417)に幕府が地蔵院に対して「近江国余呉庄内丹生・菅並両村」を安堵していることを見ると*6、これらの地の領家職は地蔵院に移ったことがわかる。なお、その後応仁・文明の乱の最中である文明年間(1469-1487)には、余呉荘(恐らく領家職であろう)は将軍足利義政によって山門(比叡山延暦寺)に寄進されている*7。
このように、この地の領家職の領有関係はかなり複雑な様相を呈している。しかし反面地頭職においては、京極高詮が応永三年(1396)、地蔵院方に属す菅並と大炊御門家方に属すと考えられる八戸を恩給として下坂豊前守に与えていることから*8、領家職の分裂とは違って地頭職は一円京極氏が保持していたと考えることができるであろう。
また、この地に関しては、佐々木氏の地頭職補任以来、地頭による領家方への押領行為が恒常的に問題となっている。例えば応永二十四年(1417)には、地蔵院領に対する京極持高被官人の押領が問題となっている。これらは、京極支配下の在地土豪層の成長を物語る事例であろう。なお、この時、押領排除命令の施行を命ぜられたのは楢崎太郎左衛門入道という人物であるが、この楢崎氏は近江国甲良荘内楢崎に本拠を持ち、代々六角氏の家臣としての活動が知られる一族である。しかし、甲良荘自体は道誉が本拠として居住し、地頭職も保持していた地でもあり、京極氏系とのつながりも大きいのではないかと想定される。ともあれ、これらの一連の史料は、当時の近江国における政治権力の動向を考える上で、大変興味深いものといえよう。
その後、戦国期永正年間(1504-1521)には、余呉荘惣政所として東蔵坊春将の名前も見え*9、在地に一定の支配権を及ぼしていたようである。この東蔵坊自体は余呉湖畔に存在した寺院のようであるが、比叡山の荘園支配機関であろうか、詳細は不明である。しかし、同時にこの頃から余呉荘も、徐々に浅井氏の勢力下に入っていったようで、地域内には、現在も村々の用水相論などに関する浅井亮政らの裁許状が残されている*10。 しかし、天正元年(1573)浅井氏が滅びると江北一帯は羽柴秀吉の領地となり、余呉荘270石は山内一豊に与えられ、天正十八年(1590)には石田三成が領するところとなった。また、関ヶ原合戦後には小堀新介によって検地が行われている。
近世にはいると、余呉荘としての一体的な把握は為されなくなり、山城淀藩領(文室)、彦根藩領(東野)、旗本領→上総飯野藩領(国安・池原)などとなる。その後これらの地区が再び一体化するのは、坂口・下余呉・中之郷・八戸・川並の五ケ村が合併し、余呉村となる明治二十二年であった。
註
*1『風土記』岩波古典文学大系所収。なお、風土記の記事では余呉湖畔における天女羽衣伝説を伝えるが、この型の説話の中では纏まったものとしては最古の部類に属するという。
*2「佐々木文書」。史料参照。
*3「佐々木文書」。史料参照。
*4この点に関しては、史料不見のため詳細は不明である。
*5「地蔵院文書」。史料参照。
*6「地蔵院文書」。史料参照。
*7「佐々木文書」。史料参照。
*8「下坂文書」。史料参照。
*9「全長寺文書」(『余呉町史』資料編下)参照。
*10『余呉町史』資料編参照。
※史料は今後掲載します。